「自分から解放される」
「自分を開放する」
この2つの文章の意味が真逆だと書かれている法話を読ませていただきました。
音を使って、心の開放や、ピアノ演奏への固定観念からの解放をお手伝いしている私は、この文章にハタと止まりました。興味深いと思ったんです。
読み進めて、考えていくうちに私の中で、真逆ではないのでは、という思いが大きくなっていきました。
自分を開放する
というのは確かに法話に書かれているように、
「ありのまま」に通じる印象があり
「自分の思い通り」
「感じるまま」
といった印象を残します。
先日の鎌倉でのイベント「音の跡」でも頭に浮かんだイメージをそのまま、自分に制限を加えず表現してみる喜びを味わっていただけた方がたくさんいらっしゃいました。
なぜなら、開催後に、今まで抑えていた感情を出すことができてとてもうれしかったと言うコメントをいただいたからなのです。
紙の上に色を走らせる時、
言葉はなく
誰かを傷つけることなく
また、誰かのエネルギーを奪うこともなく、
また、誰かに苦痛を強いることもなく
自己表現ということで自分を開放することができたのだと思うのです。
解放と開放
広辞苑では
「開放」は隠さず、あけひろげにすること
「解放」は束縛を解いて自由にすること
とあります。
言葉のニュアンスから考えると、通常、思考が「解放」された後、行動や感情の「開放」があるパターンが多いのではないかと思います。なので、たくさんのセミナーで学ぶ方がたくさんおられるのだと思います。思考は、私たちのエゴとがっつり結びついています。そして、理解した、ということで行動に移せない、セミナーを受けても変われないケースがたくさんあることも頷けるのではないでしょうか。
ですが、その逆、思考がなかなか「解放」される機会がない時、また、難しい時、「開放」と言う思考を伴わない方法、すなわちアートによって、行動や感情を開放することで思考を解放に導くこともできることをここに記さなければなりません。
「ありのまま」「感じるまま」を紙に描くこと、また音楽を奏でることは
表現する、と言う行動から、解放へ導くと言うことです。
解放はわがまま?
ですが、「感じたまま」「思い通り」をひとたび、社会や他人との実生活に入れてみると、どうでしょうか?
「感じるまま」に(他人への配慮もなしに)言葉を発する
「ありのまま」を(他人に)許可してもらう、受け入れてもらう
といった、いわゆる「わがまま」な態度となってしまう危険性が潜んでいます。「ありのまま」を間違って、他人に受け入れてもらうことだけの一方通行で考えてしまいますと、自分中心の行動になり、自己解放の意味は違ってしまいます。
最初の2つの文章は、いずれも大切です。そして、それはステップbyステップで日々、学んでいく必要があり、最後にはこの法話をくださった方が言われているように、今まで自分が作ってきた過去による自分から解放されることが、大切になるということではないかと思うのです。
話は横に逸れますが、
ベルギーで習得したコーチ養成セミナーで、びっくりしたエクセサイズを経験しました。コースには20人余りの受講生がいて、10人ずつ2つの輪を作りました。その輪は2重になっていて、1人1人向かい合うようになります。そして5秒ごとに、片方の輪は右へ動くと目の前の相手は変わります。1人に向かい合っている5秒の間に、相手の目を見ながら
「私は〇〇です」と
どんなことでもいいので、自分を探し続け、言い続けます。
否定形は一切使ってはいけないルールです。
最初は「私は日本人です」「私は女性です」「私は〇〇の職業です」と続けているうちに、肩書きは最初の5秒で言い尽くされ、いやでも、自分は誰なのか、といったことに直面しました。
過去の仕事の実績、過去の経験、過去に受けた教育、自分が理解している自分の性格
言葉にしているうちになぜだか涙が溢れ、肩書きや他人からの評価による自分を言い終わったあと、いったい私の本質は何?私は誰なの?といった感覚になったことを覚えています。
生まれてから、まずは親と日常を共にする社会生活が始まります。そして幼稚園や学校で、まずは同性の友達、そして異性の友達。職場では同僚、上司、そして、異性あるいは同性の伴侶、といった具合に人間関係の輪は広がっていきます。
それと同時に、周りや社会の言葉に多大な影響を受け、また突発性の事件などで出来てしまったトラウマからの深い思い込みが作り出されてしまいます。それらの思い込みは、だんだんと自分の本質から離れた自分を作り出し、本当に言いたいことや、望んでいること、欲していること、表現したいことに雲を覆いかぶせてしまうのです。
それは生き抜く力とも言い換えることができるのでしょうか。
そのもう一人の自分になることで、自分を守ることもでき、苦しみも軽減されると錯覚します。ですが、本質の自分から離れてしまった不安感は消えることはありません。
何から始めよう?
まずは、自分を表現することから始めてみましょう。
イエス、ノーを自分の心に素直に、他人の目線に立ちながらもきちんと言葉にできるか、から問いかけをしてみます。
行きたくもない付き合いの宴会にノーと言えますか?
みんながコースメニューを頼んでいる時、一人で食べたいものをアラカルトで注文することができますか?そんなことから始めてみるのもいいでしょう。
そして、だんだんに、好きな物、好きな色、好きな趣味を探します。また、自分の抑えない感情、イライラだったり、人に対して思わしくない感情に気づくことも出てくるでしょう。人間としてそんな自分もあるということ。
日常の小さなことから雲を払いのけて行った後に現れる自分を好きになることができるかどうか。
それこそが、そんなありのままの自分を受け入れられるかどうか、と言うことです。
そして、そんな作り出した自分を許し、そんな自分から解放されることが悟りの1ステップになるのです。
悟りのステップはまるで螺旋階段です。
上り詰める最終ゴールにたどり着くことはおそらくないでしょう。
ですが、登れば登るほど、着実に身体も心も軽くなり、あなたから出る雰囲気、オーラは確実に変わっていきます。
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