EMDR(眼球運動による脱感作と再処理療法)体験

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EMDR(イーエムディーアール、Eye Movement Desensitization and Reprocessing)は、眼球運動による脱感作および再処理法の略称で[1]フランシーン・シャピロ英語版)により開発された心理療法。比較的新しい治療技法であり、特に心的外傷後ストレス障害 (PTSD) に対する有効性で知られている[2]。なお、発案当初は EMD (Eye Movement Desensitization) と呼ばれており、1990年にEMDRと命名された。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

治療を受けてみようかな、と思った理由

仕事の人間関係が2年前からギクシャクしだしました。ある人事の変化に伴う、所属しているグループ内のそれまでのさまざまな取り決めが、一転してしまい、その後、その新しく入った人物の独断で全てが決定していくようになってしまいました。

私はマイナリティーに属していたため、発言権もなくなっていきました。

自分の言いたい言葉が伝えられない、

伝えるための手段がない、

聞き入れてもらえない日々が続いた時、

精神的にかなりの苦痛を感じていました。

そんな時、ある日、どん底にいるような気分で、あることを思い出したのです。

そうだ、これは、あの時と同じシチュエーションだ!と。

EMDRはどのような行程?

それは、トラウマを作った、あの事件の日に感じたことと同じだったのです。不当な扱いを受けたこと。自分の言葉を全く聞き入れてくれなかった相手に強い悲しみを感じ、自分の存在は意味がないと感じ、からの中に閉じこもってしまったこと。

そこで、以前から知っていたEMDRの治療を受けてみたくなりました。

もう同じ状況を繰り返したくないと思ったのです。

第1回目(約60分)

マンツーマンで行われました。サイトなどで書かれているような、左右に振られるセラピストの指を目で追うといったことはなく、鮮明に覚えている場面や、言葉、部屋の雰囲気、匂い、人物など、細かくセラピストの質問に答えながら説明していきます。状況の説明とともに、その時の感情、身体のどこに何を感じるのかを目を瞑り、身体の中に再現することに集中します。それはかなり辛い記憶も受け入れなければなりません。

その場面を思い浮かべると、胸の圧迫感を感じ、胃が収縮するような感覚とともに自分も小さく萎んでいく感覚がありました。喉には何かつっかえたものがあり、そこにも圧迫感がありました。

その回は、質問に答えながら、記憶を辿ることで終了でした。

第2回目(約60分)

第1回目から1週間後、一番鮮明に覚えている記憶の中にいる人物との場面を思い浮かべながら、セラピストの左右に動く指を目で追う治療を受けました。

それは3〜4分くらい、頭は動かさず、指先のみを目で追います。それを3回繰り返したところで同じ場面を思い出そうとしてみると、なかなか、はっきり思い出せなくなっているのです。

そこに響いていた声も、どこか遠くで話しているように、はっきりと私の耳(頭)では認識できなくなっていました。

第3回目(約60分)

第2回目よりさらに1週間後、この回では、もう一人とのトラウマとなっている言葉についての治療でした。

セラピストは私の両膝を彼の指先で軽く、一定の速さで、トントン叩きます。おそらく10分間くらいだったと思います。軽く叩いている間中、アファメーションの言葉を聞いています。すると、頭の中は何か、寝ている時のような、何かぼやけているようなものに包まれ、言葉や、その言葉を発している人の影は薄くなり霧の中に入っていくような感覚に覆われました。

毎回のセッションの後は熟睡し、フラッシュバックも起きなくなっていきました。

そして、自分はこれでいい!という何か深いところからの肯定感を信じられる気持ちになっていきました。

私の場合、数年間に及ぶオートコーチングがベースにありましたから、EMDRで泣いたりすることはありませんでしたが、頭での理解の後、身体の記憶、感情の記憶を治療することの大切さを体験したのです。

実際に、身体にダメージを与えるようなトラウマではありませんでしたが、言った本人は記憶にないほどの言動でも、30年以上強い思い込みとして身体に存在し続けてしまうこともあるのです。

今では、こうしてブログに書いておこう、と思えるほど、言葉に出したり、表現することができるようになりました。

人に何かを伝える、ということは大切であり、また不可欠な行為であるのです。

そのための一つの手段として」EMDRはとても有効であると言えるでしょう。

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